人間と虫の食料争奪戦
 
   人間と虫は古代より食料を巡って争奪戦を繰り広げてきた。縄文時代の後期に大陸から稲作文化が伝わり、農業を主とする
経済生活が始まった。しかし、人々は毎年のように起こる干ばつと害虫による凶作に苦しんでいた。人々は神々を祀り、仏に
祈り、怨霊伝説に怯えながら、雨乞いや虫追い・虫送りの行事を行っていた。熊本県宇土市に伝わる「宇土の大太鼓」も、
雨乞いに使った太鼓として残っていることが知られている。
 
弥生時代になって、稲田に蜘蛛を放ち害虫駆除をしていたとも伝えられている。平安時代になると怨霊信仰(人が死んで虫に
なり、その霊を弔い送る)が広まり、「虫送り」の行事として行われるようになる。中国の思想が強く影響した九州地方では、
害虫の駆除や予防をする「虫追い」(駆除、追い立てる)という行事があり、とくに気温の高い九州地方では害虫防除が人々が
生きていく為には重要な課題でもあった。現在でも日本各地に「虫送り・虫追い」の行事が古くからの伝統として残っている。
 
「虫送り・虫追い」の行事は6月下旬から7月初旬にかけて、松明を持った村人が笛や太鼓の音に乗って田圃を練り歩き、
悪霊退散と五穀豊穣を祈り、併せて害虫の灯火誘殺を兼ねていた。諺に「飛んで火に入る夏の虫」とあるように、虫は
蝋燭や松明の光に引き寄せられる習性があり、これを利用して害虫を駆除していた。徳川吉宗の時代に起きた享保の
大飢饉はウンカ(米につく害虫の一種)によるものとされ、我が国では害虫による凶作に見舞われることが度々起きていた。
その頃、筑前国(福岡県)ではウンカ類に対する「注油駆除」が行われるようになった。水田に鯨油を注ぎウンカを溺死
させる方法で、世界の害虫防除史でも先駆的な手法だったといわれる。その後、鯨油は魚油になり、植物油に、更に
石油類へと変遷し、除虫菊の抽出成分も加えることで殺虫効果を高めて終戦後まで使われていた。一方、灯火誘殺の
光源は時代を経て石油ランプや白熱灯へ進化するようになった。更に、昭和初期に稲を好むニカメイガやサンカメイガが
波長の短い光に集まるという論文が発表され、青色蛍光灯が開発された。終戦後は食料増産体制が敷かれ、青色蛍光
灯による誘殺方法が執られるようになる。しかし、「益虫」も殺傷するとGHQから中止命令が出され、特定の害虫を駆除
できる農薬散布へと変更された。GHQは有機合成農薬であるDDTの普及を図り、いわゆる農薬の時代となった。しかし、
1962年に発表された米国の女流作家レイチェル・カーソンのベストセラー小説「沈黙の春」で、農薬散布が土壌や水質
汚染を引き起こし、人体に多大な影響を与えると告発されたことで、1950年代半ばに農薬散布は廃止される方向となった。
 
害虫駆除の新たな方策を模索する中、それまでの誘殺とは異なり、虫の持つ光の見え方を利用して産卵を抑止し、活動を
不活発化するという研究が進められた。人間が見ることのできる光の波長は360nm~830nmですが、一般的に虫が認識
できる波長は300nm~650nmと云われています。特に紫外線の315nm~400nmや、青色の435nm~480nm近辺の光に、
虫が集まってきます。夜に街路灯などに虫が集まってくるのは、白熱灯や蛍光灯が発する光の中に、これらの光が含まれて
いるからです。逆に云うとこれらの光を出さなければ、虫は寄ってこないことになります。また、黄緑色560nm~580nmの
光には夜蛾類の行動が抑制された状態になることも発表されています。夜行性の虫は夜に活動を活発化(暗適応)させるが、
昼間はあまり見かけません。夜行性の虫は長い波長の光には適応できないのです(明適応)。これについても、虫が認識
できない波長の光を出せば防除できることになります。
 
最近は種々の発光ダイオード(LED)が開発されており、特定の波長の光を発することが簡単に出来るようになりました。
紫外線に殺菌効果があること、青色光には真珠貝の防菌効果や、イチゴ栽培におけるウドンコ病への効果があることが広く
知られている。このように光の波長が及ぼす効果が多岐に亘ることが実証されています。すでにキノコバエの誘引捕獲器や
オオタバコガの防蛾灯なども商品化されています。このように人間と虫の食料争奪戦も一見は人間の勝利のようになりそう
ですが、ミツバチのように蜂蜜を採集したり、イチゴの交配に利用する益虫と呼ばれる虫もいますし、害虫であってもそれを
捕食している鳥たちがいて、その鳥たちを人間が利用している自然の摂理というものがある。
この戦いは永遠に続くのかも知れませんね。